バルトーク Bela Bartok (1881.3.25〜1945)<ハンガリー>
ベーラ・バルトークはハンガリーの片田舎、ナジセントミクローシュに生まれました。
首都ブダペストから約200キロも離れた、今はルーマニア領となっている小さな
町です。バルトークの父親は音楽が好きで、ピアノ、チェロができ、公立農業学校の校長をしてい
ました。母親もピアノが上手で、こういった環境のもと、バルトークは子供の時から音楽
への興味を示し、5歳から始めたピアノも上達が早く、将来が期待されていました。
父親が亡くなった後、家族は各地に転々とし、このため少年バルトークはそれぞれの土地の
民謡に親しむことができました。1894年にポソニーに落ち着き、ラースロー・エルケルに
師事、又エルネ・ドホナーニとも親しくなりピアノの勉強に励みました。1899年、18歳の時
バルトークはウイーンの音楽学校に入ろうとしましたが、ドホナーニの反対で(ウイーンの音楽学校は
国際的すぎるので、ハンガリー人としての音楽がだめになると!)結局ハンガリーの音楽学校、
ブダペストの王位音楽院に入って作曲をハンス・ケスラー、ピアノをステファン・トーマンに学びました。
やがて、リヒャルト・ストラウスの音楽に感銘し、作曲家になることを決心、1903年には
その影響のもとに交響詩「コシュート」を作曲しました。この年音楽学校を出て1905年に
ルビンシュテイン賞コンクールにピアノと作曲で参加するため、パリへ行きます。結局どちらも
入賞にはいたりませんでしたが、ドビッシー、ラベルの印象派の音楽に惹かれ、影響を受けます。
又、当時ハンガリーでは民族主義運動が盛んで、バルトークは自分こそ、その音楽の領域での
闘志であると一級年下のコダーイと共に古いハンガリー民謡曲の収集に力をそそぎました。
従来、ハンガリー音楽と考えられていたジプシー音楽に代わって、本来のマジャール人(ハンガリー人)
の音楽を発掘し、音楽の基礎としました。
1907年にブダペストの音楽院のピアノ教授となり、1911年にはピアノ曲「アレグロ・バルバロ」、
オペラ「青ひげ公の城」を作曲、ストラビンスキー、シェーンベルクの影響を受けながらも、彼の個性は
強調され、ますます作曲家としての名声を高めて行きました。
1923年に、バルトークはピアニスト、ディッタ・パストリーと再婚、彼女との間に生まれた二人の
息子のために、ピアノのためのエチュード「ミクロコスモス」を書きました。これは、初歩から高度な
技巧までのピアノ練習の過程を含み、音楽史上ユニークなエチュード、又現代のピアノ音楽の入門、
手引となっています。
これ以降、第一次世界戦争、ヒトラーの勢力と、国状が悪くなる中バルトークはついに1940年、
祖国へ別れを告げ、夫人と共にアメリカへの亡命を決意しました。
アメリカでのバルトークの生活はかなり悲惨なものだったようです。演奏会や、ハンガリー民族音楽に
ついての講義は開くもの、収入は少なく心身ともに疲労しきっていました。こんな中、1943年、
アメリカの大指揮者クーセ−ヴィッキーの依頼により「管弦楽のための協奏曲」、1944年、
バイオリン奏者メニューヒンの依頼により「無伴奏ヴァイオリンソナタ」を書きました。その後、
体力の衰えた中、イギリスのヴィオラ奏者プリムローズからヴィオラ協奏曲の依頼、そして妻ディエタの
ためにピアノ協奏曲を書きつづけますが、すでに力尽きてこのピアノ協奏曲の最後の17小節の
オーケストレーションを未完のまま白血病にて64歳、この世を去りました。
ハンガリードナウ河と国会議事堂
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バルトーク像と記念館
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